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徒然なるままに




平成23年5月6日より、1週間ほど宮城県石巻市へボランティアへ
行ってきました。
出発から帰着までの主な出来事を「つれづれに」書き記します。





NO 1 出発前:オリエンテーション


前代未聞の大震災が東北を襲い、個人的にも縁のある地での被災者達の生活を目にする度に、「何かをしなくては」と思いつつ、「ぬるま湯」の文明生活を過ごしていた。
その度に、先人のある言葉が思い出された。

ラ・ロシュフコオは言う、「我々は、他人の不幸を我慢して見ていられるほどに気が強い」と。

この言葉の圧力の前に頭を垂れ、被災地でのボランティアに参加することを決意した。

4月30日に東京国際センターにて、ボランティア希望の人達を対象に説明会とオリエンテーションが行われた。
中には、友達同士で来ている人もいるが、ほとんどの人は「一匹狼」状態だ。また、予想外に女性が多い。
説明会では、1週間の現地でのボランティアは予想以上に厳しい為、相当の覚悟が必要である旨が語られた。
その説明を聞いて、何人かの方は現地でのボランティアを諦め、退出されていた。

現地での活動は基本的に6人1組で活動をするとのこと。この為、周りの見知らぬ人とチームを作る必要がある。たまたま自分は近くにいた人とチームを組むことになった。
ほんの数分前まで見知らぬ人であったが、互いに自己紹介をして荷物の内容などについて相談した。

メンバーは様々なバックグランドの持ち主だ。
リーダーのY川さんはパン屋さん、保育士で筋肉増強体のH本さん、演出家の勉強をしているテンポの良い話上手のS田さん、ほとんど陸上にはいない船乗りの澤Dさん、大学院生で勉強家のF里さん、そして、会計士の自分。
全く知らない人達と1週間うまくやっていけるだろうかと不安にもなったが、そんな心配は後々に微塵にも不要だと分かる。

やっと行動に出た自分にもどかしさを感じたが、先人の次の言葉を思い出した。

ベンジャミン・フランクリンは言う、「立てる農夫は、座せる紳士より尊し」と。


                                      
NO 2 出発:新宿中央公園前


4月30日のオリエンテーション後、リーダーを中心に持ち物などについてメールでやり取りした。リーダーのY川さんは以前にもボランティアに参加した経験があり、貴重なアドバイスを頂いた。

準備するものは結構ある。何しろボランティアはやったことがない。寝袋、テント、
作業着、1週間分の食料など準備するのに結構な金額となった。
ふと、この金額を募金すれば時間が拘束されず仕事ができるという考えがよぎったが、微塵でも体に染みる貢献をしたい気持ちにより払拭された。東北には監査法人在職時に出張でよく行き、また田舎もある。海が綺麗で昼寝のついでに釣りをしている老人がいるような、のどかな東北の風景が大好きだ。

100円ショップでパックご飯や缶詰、カップ麺などを大量に買占め、1週間分の食料を何とか調達したが、その量に我ながら圧倒された。また、テントや安全長靴などの持参する備品類も多い。

出発は新宿中央公園前を夜9時30分。新宿駅に向けて、いざ出発となり自宅を出たが、その尋常ではない荷物の重さにビックリした。大きいリュック、大きいバッグ2つ、寝袋とほとんど荷物が動いているかのようになった。しかも、川崎駅へ歩いている途中に荷物の重さに耐え切れず、リュックの肩掛が切れてしまった。
その大量の荷物を抱えながら新宿駅までやっとたどり着いた時には、既に汗だくとなっていた。
後から他のメンバー達もやってきたが、みんな同じく荷物の多さと重さに参っていたようだ。

現地で待ち受けている労苦について多少不安になったが、他のメンバー達を考えると仲良くやっていけそうだと感じた。

シェークスピアは言う、「楽しんでやる労苦は苦痛を癒すものだ」と。




NO 3 到着及び半日作業:石巻専修大学グランド


バスは新宿を夜10時頃に出発して翌日の朝6時頃に石巻専修大学に到着した。今回のボランティアに参加する人が全員集合して様々な注意事項の説明を受けた。人数は約300人くらいだと思う。

自分のいるチームが配属されたボランティア活動は更に少し離れた場所を拠点にボランティア活動をする為、更にバス移動した。着いた所は津波の影響により稼動不能状態になった衣服工場だった。工場の建物自体に大きな損傷はなく、テントを張る代わりにこの工場の中で寝泊りするとのことであった。

工場に到着すると、そこのボランティア責任者の方から建物の使用状況などの説明を受け、各チームに分かれてガランとした工場内に分散した。
昼ご飯を済ませた後は、早速現地でのボランティア活動だ。内容は現地の方のお宅に行き津波により、もたらされたガレキやヘドロの片付けである。この為、各自は安全長靴や皮手袋などの備品も持参してきた。また、作業中にはホコリが舞い上がる為、マスクは必需品だ。中にはガスマスクのような物を付けている人もいる。

いざ出発となり割り当てられたIさん宅に着き、リーダーY川さんの指示によりヘドロ掃除が始まった。この作業で一番危険なのはガラスだ。中小のガラス破片がヘドロに混じっている為、ゴム手袋の中に皮手袋をしていても切れてしまう恐れがある。また、ヘドロの匂いも強烈だ。子供の頃によく行った多摩川も同じような匂いがしていた。

各現場に行く際に目にする光景は、液晶画面から受けるものとは別物だ。海辺から数キロも離れている場所でも、このようになるのかと自然の威力を感じた。また、原発の設計時にはない、想定外の津波を思うと次の言葉が思い出される。

ベンジャミン・ディスレーリは言う、「我々が予測するものが起こる事は滅多になく、我々がほとんど期待もしない事態が一般に発生する」と。



NO 4 1日目:Iさん宅ヘドロ掃除


午後からのIさん宅のヘドロ掃除はその量の多さから1日ではとても終わらないことが容易に予想がついた。自分も含め5人はヘドロ掃除などしたことがない。ヘドロに混じっている多くの品物をみると、津波前までには各々の物品が価値あるものであったことを考えると、問答無用の津波による影響は想像を絶する。

長岡半太郎は言う、「自然に人情は露ほど無い」と。

中には、写真などもある。変わり果てた写真ではあるが、このような思い出の品物は捨てずにボランティア本部へ送られて持ち主が分かるものは手渡すとのことである。

ヘドロの中から、箱が出てきた。中に何が入っているのかと思い開けた所、赤ちゃん用の哺乳瓶セットだった。この持ち主の家族がどうなったかは分からないが、無事な事を願いつつゴミ袋へ入れた。
作業中に名古屋出身のS田さんがガラス破片で指を切った。破傷風の危険もあることから大事をとってS田さんは先に宿泊場へ戻っていった。

半日しか作業してないが、腹の減り具合は強烈だった。持参してきた菓子パンを流れるように食べて、夕食の用意に取り掛かった。

食事は、調理不要のパン類やお菓子、お湯であっためるもの、お湯を入れるものに大別できる。夕食は主に、ご飯や缶詰を温めてるのが主役だった。中にはバスタをゆでたメンバーもいる。自分は、調子に乗って、蒲焼さんまの缶詰とパックご飯2個とカップラーメンと「フルコース」だ。食後はジャスミン茶と洒落込んだ。
就寝時間は10時だが、みんな疲れ果てている為、既に寝ている人も多い。

この日は1日目なので食料は豊富だが、後々に食料の配分に頭を痛めることになる。そして、今日、食べた食材を考えてみると、こちらに来る前とは全く異なっている。
ふと、食べている物で、その人間性が分かるとした先人のことを思い出した。

サヴァランは次のように言う、「君がどんなものを食べているかを言って見給え。君がどんな人間であるか言ってみせよう」と。


NO 5 2日目:Oさん宅⇒公園ヘドロ掃除


朝の起床時間は6時であるが、その前には多くの人が起きている。自分も5時30分くらいには目が覚めて起きていた。
7時30分からは全員でラジオ体操をする為、それまでに朝食をサット済ませる必要がある。そして8時には各チームに割り当てられた現場まで歩いて移動する。

この日はOさん宅のヘドロ出しだ。現場に着くとかなりのガレキやヘドロがある。作業中は天気が良く晴れ渡っていた為、暑さに参った。作業着といってもヘドロが体に触れないように水を弾く素材の上下を着ている為、まるでサウナスーツと同じだ。
みんなで休憩しているとOさんがお茶とアイスをくれた。まだ、この辺で食料品を売っている店は無いにも拘らず、わざわざ用意してくれたアイスを感謝しつつ頂いた。また、Oさんは、津波直後の話をしてくれた。やはり、戦争と同じく経験者が語る文字は液晶文字や印刷文字とは違い、色が濃く感覚に飛び込んで来る。
なんとかヘドロ掃除を終えて帰るときOさん夫婦がとても感謝してくれた。ボランティアは無償奉仕とは言うが、この心に響く感謝の言葉を求めているのかもしれない。

午後からは近くの公園のヘドロ掃除だ。公園一面がヘドロに覆われている。この日は途中までしかできなかったが、翌日この公園での作業が全員をバテさせることになる。

昔、本で読んだが人間がまだ猿人のような生活していた頃、遺跡などから判断すると、強い者が弱い者を虐げていたとは考えられず、むしろ互いに助け合ったことが伺えるそうである。
今回の場合は、強弱の立場ではないが、全国から来るボランティアの数をみると、この記載が正しいように思える。

セネカは次のように言う、「人間の存するところ、仁慈の機会あり」と。



NO 6 3日目:公園ヘドロ掃除⇒Iさん宅


この日は天気がとても良かった。晴れ渡った青空の下、体を動かすには爽快なはずだが、約3分の2がヘドロで覆われた公園でひたすら、ヘドロをかき出している。この日は気温が上がり、サウナスーツ状態となった作業着が体力と気力を奪っていく。かき出し作業は2人1組となり1人はスコップでヘドロをすくい、もう1人は袋を開けている。このかき出し作業は腰にくる。腰痛持ちの自分にとってはスコップですくう作業がこれほどキツイとは思わなかった。

工事現場で働いていたこともあり、肉体労働はフライ級の自負があったが、もろくも崩された。メンバーのH本さんは体中の汗が長靴に溜まり、長靴の中が汗でジャブジャブと溢れていた。この暑さに加えて、ヘドロの匂いによりノックアウトだ。
とはいっても、休みをまめに取りながら何とか公園全体のヘドロかき出し作業が終わった。ヘドロが取り除かれた公園は、見違えるほど綺麗になったと感じた。公園の名前は「石巻市開発公園 333」。いつか復興が実った暁にはこの公園に来たいと、みんな口を揃えていた。

残りの時間は1日目に伺ったIさん宅での作業だった。裏庭には大量のヘドロとガレキが散乱しており、この日では終わらないと容易に判断できた。Iさん宅は宿泊してる工場から1キロ程離れている為、昼ご飯を持参してきた。みんな菓子パンなど限られている食料を食べている。自分はパンではとても足りないので、冷ご飯にふりかけをかけて食べた。
自分はグルメではないからだろうか、これ程うまいと感じたことはなかった。

セルバンテスは言う、「空腹は最高のソース」と。

時々TV番組で見かけるグルメ評論家達が虚しく思えた。
1〜2日も、一緒にいれば互いに慣れてきて夕食時は笑いが絶えず、夕食後にはみんなでトランプ大会だ。
トランプをして寝た夜、ふと、先人の言葉が脳裏を過ぎった。

ショーペンハウアーは次のように言う、「運命がカードを切り、われわれが演じる」と。



NO 7 4日目:Iさん宅⇒Sさん宅


この日は、前日で終わらなかったIさん宅のヘドロ出しの続きだ。大量のヘドロがあったが、みんな黙々とヘドロ出しを行っている。しかし、時々は互いの仕事内容や環境について話ながらヘドロ出しを行っていた。自分は船乗りの澤Dさんと組んでヘドロ出しをした際、色々と船乗りの生活を聞いた。聞くことによると結構、船上生活は不便でないらしい。ネットも使え、TVも見れる。また、毎日シャワーも浴びれるそうだ。

ボランティア生活中は、シャワーなど浴びれない。自分も体を「赤ちゃんのお尻り拭き」で拭き、水のいらないシャンプーを使う程度だ。しかし、こちらの現地の人達も当然、フロなど入ることができない事を考えると、不満は全くなかった。

みんなで作業中にIさんがやってきた。齢は70歳位と思われる。この広い家に1人で住んでいるらしい。家の中には幸いにも、流されずに済んだ、先立たれた奥さんの写真が1階の部屋にあった。津波が来たときは2階に逃れたそうだ。恐ろしかったといっていた。
このようなIさん状況を知ったからであろうか、みんなフルパワーでガレキなどを片付けている。中には綺麗に庭の踏石を磨いている人もいる。その光景を見てなぜか、加古隆の「パリは燃えているか」という曲が、ふと思い出された。

プラトンは言う、「音楽は魂をその秘奥へと導く」と。

庭からIさんの思い出のある写真が見つかり、リーダーのY川さんがIさんに手渡し、とても感謝されていた。
ようやくIさん宅の掃除が終わり、引き上げる時にはIさんもまた、みんなに大変感謝していたことが思い出される。向かい側の家では、庭で子供達が遊んでいた。

この日の夕食時に、宿泊している工場にスリランカから紅茶が届けられた。みんなで夕食後にお湯を沸かして、飲んだ。自分はいつも夕食後はジャスミン茶を飲んでいたが、この紅茶もおいしく頂いた。
恥ずかしいことに、スリランカが地球の何処当たりにあるのか知らなかった。

ボランティアのスタッフの方から聞くことによると、現地での被災者による復興に向けた活動が活発だとのことだ。

ルーイスは次のように言う、「悲しみのための唯一の治療は何かをすることだ」と。



NO 8 5日目:タイヤ販売店


この日の作業現場はタイヤ販売店だった。気が遠くなるようなガレキとヘドロの山だ。重機が入ることができる箇所はやらず、重機ではやりにくい箇所のヘドロ出しだ。
でかいカンバンを支えている棒が後ろに倒れており、その間に大量のヘドロが溜まっていた。量も莫大だが、何よりも匂いがキツイ。「ぬかみそ」が腐ったような我慢できない匂いが強烈に放っていた。

今日はH本さんと組んでヘドロ出しをやった。H本さんはパワフルにガツガツとヘドロをすくっていった。よく腰が痛くならないなと思いつつ、自分も何とかペースについていった。
ヘドロは地中からいくらでも出てきた。それをガレキや漂流物を手で掻き出しながらすくっていく。匂いが強烈で耐えられなかったが、その匂いを放っている物体を除去すると匂いは薄くなっていった。
裏側では大量の漂流物が散乱している。また、大量のガラス破片もある。これらを手分けして、なんとか除去できた。

夕食後、被災者の方からの「話会」があった。通称「バンチャン」といわれている「気さくなおじさん」であった。しかし、その風貌とは裏腹に後に、ボランティアみんなの心を響かすこととなった。
彼は津波が来た時の状況など色々な事を話してくれた。その中で印象的な話は、「津波が来たら、親や家族を助けに家には戻るな」という内容の話だ。
親や家族を助けに戻れば、その一家全員が亡くなる可能性があり、その場合、その一家の血筋は途絶える。しかし、誰かが生き残っていれば、後世に血筋を残すことはできる。この為、まず自分が生き残ることだけを考えろということだ。
このような教えは大昔からあったらしい。

彼はこのような話を涙を流しながら語った。彼の心から染み出る涙は、上っ面の涙とは魂の純度が違う。その涙はとても綺麗だった。
彼の話は、自分も含め多くのボランティアの心に共鳴した。

ユダヤの格言には次のような美しい格言がある。「石鹸は体のため、涙は心のため」と。



NO 9 6日目:Cさん宅⇒Tさん宅


この日はCさん宅の床下のヘドロ出し作業だ。現場についてみると、床下一面ヘドロで覆われている。しかし乾いており、あまり匂いはしない。床下であることから、大きいスコップは使えない。この為、小さいカマのようなもので掻きだして除去していく。
また暗い為、ヘッドライトを使わないと見えない場所もある。S田さんは、狭い場所を炭鉱労働者のように這いつくばって一生懸命ヘドロを掻きだしていた。

何日もみんなで作業している為、チームワークも抜群だ。リーダーのY川さんは常に的確な作業割当をしていた。ただボーとしているメンバーはおらず、常に誰かのサポートをしたり、自らが率先して重労働を買って出ていた。それは、みんなが、少しでもこの家を綺麗にしてあげたいという思いからであることは容易に想像がつく。

ヘドロ除去が一段落して、みんなで休憩していると、Cさん夫妻がお茶とお菓子を出してくれた。チョコレートを子供の様にガツガツ食べてしまった。
Cさんは船舶貿易関係の仕事を30年以上しているとのことである。地震当時、津波警報で津波の高さを聞いた時、周りの住民は平静であったが、海で仕事をしている関係上から津波がこちらまで来ることは分かったと言っていた。なお、Cさん宅は海から約2キロ離れているとの事である。

周りの家の壁をよく見てみると、水位が上昇した跡が見受けられる。少なくとも普通の民家の1階部分は完全に水没だ。
Cさん夫妻もまた、作業が終わり引き上げる時、大変感謝してくれた。

次に向かったのは、最後の作業現場となるTさん宅だ。現場について驚いたのは、庭に散乱しているヘドロの山だ。また、漂流物も多い。とても1、2日で終わる量ではないと思えた。5、6日もヘドロ出し作業をしている為、さすがにみんな疲れている。
そして、ここの現場でメンバー全員が燃え尽きることになる。
夜に雨が降り出してきた。夜中に起きて外のトイレに行く際、暗闇の中で雨音を聞いて、ふと、高田みち子の「雨は優しく」という美しい曲を思い出した。

聞くことによると、今回のような大津波も遥か昔に起きた形跡が見受けられるそうである。

バイロンは言う、「最良なる預言者は過去なり」と。



NO 10 7日目:Tさん宅


今日がボランティア作業の最終日だ。メンバ−全員があっという間の1週間と言っていた。
本日の作業現場は前日からの引続きでTさん宅。庭が広い為、もう1チ−ムも加わって、共同で作業を行った。庭には未だに大量のヘドロと漂流物が散乱している。しかも大量のガラス破片も散らばっている。また、前日の雨で水たまりもできており、作業がしにくい。
漂流物は何でもありだ。タイヤのホイ−ルが逆に反り返ったものなどもある。ヘドロを袋に入れて、1輪車で運び大きな道路のわきに積んでいく。近くでは自衛隊が重機を使い、半壊した建物を取崩している。この日は天気も良く、暑さにヘバッていた。それでも最後の仕事としてみんな、何かに取り付かれた様に一心不乱に作業を行った。

結局、この日ではTさん宅のヘドロ除去は終わらなかったが、引き上げる少し前にTさんの奥さんがやってきた。除去した後の庭を見て、綺麗になったと大変、感激しておられた。最後には車のガレ−ジを綺麗に掃除して引き上げることとなった。
これで今回のボランティア作業は終わりだと、みんなシミジミと語りながら歩いた。

本来、就寝時間は10時だが最後の夜は11時となった。各チ−ムとも思い思いの最後の晩餐を楽しんでいた。自分のチ−ムではみんなが食料のラストスパ−トをかけていた。自分は、食料の配分を誤った為、日に日に食事が淋しくなっていった。しかし、この日はY川さんが鍋でご飯を5キロ炊いてくれた。みんなでご飯ができるのを楽しみに待ち、出来立ての「銀シャリ」をおいしく頂き、残ったご飯で各自がおにぎりを作った。また、パン屋のY川さんは、パンケ−キも焼いて作ってくれた。パンケ−キの間には、あんこと桜桃を挟んだ。見た目はボリュ−ムがあり、まるでビックマックのようだが、味は大変美味しく頂いた。

この日は、先に寝ているメンバ−もいたが、これからの東北の復興計画についてなど、みんなで様々な話をした。最後の夜は修学旅行のようになってしまったが、明日には「ぬるま湯」の別世界に逆戻りとシミジミ思った。

今回のボランティアの参加に際して、顧客の方の理解により「1週間の音信不通」も快諾してもらえた。
実際、ボランティアには様々な方がおり、各人が様々な犠牲の下に参加している。

トルストイは次のように言う、「慈善は、それが犠牲である場合にのみ慈善である」と。



NO 11 8日目:帰着日-1


いよいよ最後の朝となった。本日は、みんな作業着姿ではない。帰る衣服を身にまとい、最後のラジオ体操をした。
こちらでは自由行動がない。勝手に宿泊場である工場を出て被災地を「見学」することは厳禁だ。しかし、最終日の今日は朝食後はボランティアの責任者の下、希望者は近くの海辺の方へ歩いていけることが許された。多くの人が1列に並んで退廃した町並みを歩いていった。
そして、しばらく歩いた所で、海辺に向かい全員で黙祷をした。

周りを歩くと、その変わり果てた町並みや信じられないような風景には誰もが足を止め、息を呑んだ。退廃した保育園、オモチャのようにひっくり返った車、残骸と化した消防車など、考えられない風景が広がっている。しかも、見渡す限り全壊だ。電波を介して見るのとは、わけが違う。まるでソドムとゴモラの町だ。
それでも場所によっては親が行方不明となった我が子を「狂ったように探している」とバンチャンが言っていた。

これも「神のなせる業」か。

我が子を亡くした母親の悲しみは、「神の思召し」などという言葉では決して救われない。ただ、「時間」だけが彼女の悲しみを心と同化して、生きる糧となるにすぎない。時間は心の病の多くを和らいでくれる。
ディスレリーは言う、「時は偉大なる医師である」と。

おそらく、残念なことに今後もまた、このような大震災だけでなく、理不尽な事件や事故が起こるだろう。そのような事を目にする度に、この世に神も仏もいないと考えてしまう。

1列に並びながら荒廃した町並みを歩きつつ、「神」という存在の有無について、唯一、解答を出したと無宗教の自分が考える先人の偉大な言葉を思い出した。

ニーチェは言う、「神を信じるには、神のように残酷でなければならない」と。


NO 12 8日目:帰着日-2


バスは石巻のボランティア拠点である工場を、午前9時に出発した。その際には、各班とも、これからはバラバラとなり、会うこともないかもしれないメンバー達と写真を撮って、名残を惜しんでいた。
出発する際には、ボランティア拠点のスタッフの方全員が、労をねぎらい、代表者の方が感謝の言葉を送ってくれた。その方の言葉を聞いていて、ジュリアーニ元ニューヨーク市長の言葉を思い出した。彼は、同時多発テロ後のスピ−チにおいて、次のような旨を語っている。
「被災されなかった方は、是非、後ろ向きにならず、いつもの生活を過ごしてもらいたい」。

いざ出発し石巻の町並みを過ぎると、少しずつ見慣れた「文明社会」が目に写ってきた。高速道路を走っていると何台もの自衛隊の車両とすれ違う。2日目に伺ったOさんが、自衛隊の方が、命を張って首の辺りまで海水に浸かりながら救助してくれたと話されたことを思い出した。自分の孫も自衛隊になって貰いたいとまで言っていた。

暫くすると、サービスエリアに止まった。久しぶりに、思い思いの食品を胃に収めてしまった。現地の不便で不自由な生活を考えると、後ろめたいが、いつもの生活として過ごした。

午後5時頃に出発場所であった新宿中央公園に到着した。多くの荷物をみんなで取り出し、そして、Y川さんによる最後のミーティングが行われた。みんなシミジミと聞き、その後にみんなで写真を撮った。不思議なことに、わずか1週間しか一緒に居なかったにも拘らず、大学や職場での知人達とは異なり、この先、一生に渡り顔と名前を忘れる気がしない。おそらく、どのくらいという「期間」よりも、どのようにという「内容」が濃い為だろう。

1メンバーとして、自分も含め、みんな本当によく慣れない作業をしたと感じた。

エウリピデスは言う、「過去の労働の記憶は甘美なり」と。

そして、互いに握手をし、今生の別れを言って、各自の帰路についた。この先、互いの人生のレールは交差しないかもしれないが、彼らを忘れることはないだろう。
今夏か1年後かは、必ず再度、ボランティアとして被災地へ行きたいと考える。
しかし、疲れた。

エマーソンは言う、「良くやったことの報酬は、それをやったことだ」と。



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平成24年5月11日より、2日間ほど宮城県石巻市へボランティアへ行ってきました。
出発から帰着までの主な出来事を「つれづれに」書き記します。





NO 1 出発〜1日目


日々の忙しさから、東北の震災について実感が薄れていくのを感じつつ、昨年のボランティア参加からもうすぐ1年経過しようとしているのに気が付いた。
1週間のボランティアは仕事の日程上、厳しいが、しかし、本当はそれが単に「言い訳」であることは自分自身が気づいていた。
ボランティアの手は未だに必要だという事は様々な媒体から耳に入ってくる。
その度に、先人の次の言葉が思い出された。

ハルトマンは言う「多くの人は耳を貸すが、手は貸さない」。

ボランティア活動を調べてみると、週末だけのボランティアがあることを知り、参加することにした。
今回は、事前の顔合わせなどはなく、当日のバスの中で初めてメンバ−達と会った。
個性的で楽しい人ばかりで、今思い返してみても、とても仲良く楽しく活動ができたと感じる。

夜の10時に高田馬場を出発し、石巻へは早朝6時頃に到着した。この場所は1年前と同じ衣服工場跡だ。周りにあった大量の漂流物はなくなっておりシャワ−設備があった。
懐かしく感じる間もなく、朝食を済ませた後には各班に分かれてボランティア活動だ。
自分たちの班は、今年7月に開催される予定の「花まつり」の下準備としての雑草取りだ。
なるほど、1年前のボランティア活動の主はヘドロ掃除などであったが、そのような活動は1年も経てば、ないのもうなずける。
雑草取りの場所へ行ってみると道路の中央分離帯にあり、風が冷たく強かった。この場所で本当に「花まつり」ができるのかと思った。

みんなで雑草取りしていると、通りすがりのダンプカ−など車の運転手が「お礼」の意味だろうか「プッ」と音を出したり、見知らぬ自分達に手を挙げたりしてくれた。
そんなささいな仕草を見て、心が和んだのは自分だけでなかったようだ。

スペンサ−は言う、「わずかな仕草が時として、百を語る」と。

夕方には雑草取りが一段落したので、その日の作業が終わった。そして、責任者の取り計らいにより、日和山公園へみんなで立ち寄った。
日和山公園は、自分が監査法人在職中に東北出張した際、休日を利用してよく車で来ていた場所だ。とても懐かしく思えた。
公園の頂上からは、各地から集積され高く積もられたゴミの山や廃車の山が見られた。このような光景を見ると、確かに町並みは綺麗に片付いているように見えるが、実は単にゴミなどが移動したに過ぎないように感じた。
「絆」と高々に謳っても、広く日本全国に公平に行くべきガレキや廃車の巨大な山を見ると次の先人の言葉が思い出される。

ゴ−リキ−は言う、「行動を言葉に移すことよりも、言葉を行動に移すほうがずっと難しい」と。

その夜、現地の人が撮影した映像が試写された。その映像を見ていて、映し出されている光景もさることながら、その画像の鮮明さにも改めて感じた。
ふと、この映像技術で多くが白黒画像で残っている歴史のフィルム画像を記録していたら、私たちの歴史の思いも異なっているだろうと思った。
震災の画像と日々見ている画像が一致しているところに、震災自体がとても現実的に感じると同時に、どこか他人事のように感じるのかもしれない。
500年後に日本人がいるとしたら、彼らは、今回の震災からの事実をどのように考えるのだろうかと思った。

岡倉天心は言う、「我々は、我々の歴史の中に我々の未来の秘密があることを本能的に知っている」と。




NO 2 2日目〜帰着


2日目は、バスで1時間ほど移動して、漁師さんたちの手伝いだ。他の班の人たちもいて、現地に到着し各班毎にボランティアを行った。
自分のいる班は、まだ散乱している生活の匂いがある漂流物の収集だ。よく地面を見ると、細かい生活品だった陶器の欠片や衣服などの家庭用品などが多くある。これを一つずつ、拾っていくという気の遠くなる作業だった。
黙々と作業を行い、昼休みとなった際にみんなで漁師さんのトラックの後ろに乗って、海まで行った。その途中には、その地域の「守り神」だろうか、古い石造があった。
海に近くなるにつれて、平地が続くが、実は以前は魚の加工工場があったが、津波で全てなくなったらしい。
漁師の方が、何十年ともかけて築きあげたものが一瞬でなくなったと言っていた。
日本の各地にはその地の「守り神」なるものがあるが、この様なことを経験してもその気持ちは変わらないのだろうかと思ったりした。
自分のような無宗教の凡人には、触れることのできない領域だ。

アウグスチヌスは言う、「信仰のもたらす報酬は、信ずるものを見るということである」と。

その漁師の方は、海の方を見ながら津波が来た時の話をしてくれた。「波」がまるで、龍のようだったと言っていた。そして、その「波」により全てが流され、1年経っても何も変わっていないと言い、国が言う「復興」に期待をしてないように思えた。
しかし、その漁師さんは、「全てなくなっても諦めない」と言っていた。

なるほど、ボヴィ−は言う、「全てが失われようとも、まだ未来が残っている」と。

その場所でのボランティア活動を終え、活動拠点に戻る為にみんなでバスに乗り込んだ。
帰りのバスの途中でも市街地は綺麗になっているが、郊外にガレキや廃車の巨大な山があるという事実を見て、次の先人の言葉が思い出された。

W・チャ−チルは言う、「人間は事実を見なければならない。事実が人間を見ているからだ」と。

このような言葉を言う政治家がいる国が、とても羨ましく思えた。
おそらく、ほとんどの人が現在の「復興」に対して疑念を持っているのだろう。しかし、その「復興」を主導しているのも自ら選んだ人物でもある。
ふと、政治屋と政治家の違いを端的に述べた、先人の言葉が思い出された。

ジェ−ムス・クラ−クは言う、「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の時代を考える」と。

今回のボランティアは2日間であったが、1年の間にボランティアの生活の「質」も向上していると感じた。しかし、今でも、ビラミッドのようなガレキや廃車の山は忘れられない。

ヴォルテ−ルは言う、「偏見は判断を持たない意見である」と。



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